伏見支部 松井宏哲さん
戦争は、二度とあってはならない。
今年も広島に原爆が落ちた8月がやって来ました。何年経っても忘れられない当時の実体験を思い起こしたいと思います。私は田舎に居て、都会での戦禍に会わなかったけれど、私なりの戦争体験をしました。
昭和16年12月、私が小学校2年生の時に、あの太平洋戦争が勃発した。教室前面には、真珠湾攻撃で殉死した軍人「軍神何々と呼ばれた」の写真が飾られた。後で分かった「国家総動員法」が発令され、日本中全体が「戦争一色」となった。学校の勉学は二の次だった。働き盛りの人達は、戦争に駆り出され、小学校の生徒は農業の手伝いで、麦や甘藷づくり(かんしょづくり:さつまいものこと)をさせられた。馬鹿げたようでも、戦用の浮き(ブイ)に入れる為かススキの穂をとったり、軍服の繊維にする為マオウという名の草を採り乾燥させ供出したり、海が近いので塩田を作り、塩づくりもした。
当時、徴兵制は国民の義務、男は時が来れば、徴兵検査を受けなければならない。甲、乙、丙に分けられ、順次徴兵令(いわゆる赤紙)が来て、村の八幡神社で村民全員で激励、出征し近くの軍隊に入隊させられた。
戦争中は、アメリカ空軍による東京空襲からはじまり、大阪など大都市が次々と空爆され、ラジオ、新聞で報道された。
戦争も終わり頃は、アメリカ空軍のB29が堂々と瀬戸内の空を通り、主要都市を爆弾攻撃した。因島には大型造船所があり、アメリカの「グラマン」という戦闘機が5、6機やって来て、空から急降下爆撃をした。その模様をこの目で見た。そのシーンは今でもこの脳裏に残っている。高射砲で下から打つのだが当たらない。砲弾の爆発した色が、最近の打ち上げ花火の超小型のように綺麗だった。
そして、小学6年生の夏、米軍が広島に原子爆弾を落とし敗戦となった。当時の新聞には、新型爆弾と報じられた。僕らが、塩田で塩づくりをしている時、不思議な言葉を耳にした。古老が、「平和になった、平和になった」と。この言葉の意味が分からない程、当時の教育は、戦争一式の「軍国主義」に洗脳せられていたのでした。
後に教育の重要性を、改めて認識したのでした。