伏見支部 岩崎りえさん
私は昭和13年に舞鶴で生まれました。2つ上に姉がおり、5人姉弟の2番目です。3歳のときに太平洋戦争が始まったのですが、ほとんど記憶はなく、小学1年生で終戦を迎えました。
小学校に入る時、ランドセルはなく、母が竹で編んでくれた「かご」のようなものがランドセル代わりです。
父は海軍の工廠に勤めており、家は下宿をしていたため、兵隊さんが来られていました。その兵隊さんが食べ物を持ってきてくれることもあり、戦時下で食べ物がないというものの、私らはマシなほうだったと思います。船に乗っている兵隊さんが実家が沖ノ島かどこかで、雑魚を頂いた覚えがあります。さすがに虫を食べたことはありませんでしたが、雑炊のお店では行列が出来ていて、でも汁ばっかり。今日はシジミが入っていると思ったら自分の「目玉」が映っていたという話をよく聞きました。畑ではサツマイモなどを作っていて、イモのツルまで食べていました。
当時の暮らしは、部屋の明かりは外にもれたらいけないということで、電灯の周りに黒い布で傘のようなものをかぶせていました。女の人は着物を作務衣にし、それを決戦服と言って、胸に名前と血液型を縫っていたものです。町内では大人は竹やりで本土決戦の訓練をしていたり、焼夷弾が落ちた時の消火作業を傍で見ていたこともあります。夏も防空頭巾をかぶって警戒警報の際は避難していました。防空壕は家の中にありましたので、空襲警報が鳴ればそこに隠れるわけです。ですから、昼夜安心して寝られなかった思い出があります。「欲しがりません勝つまでは」が標語。金目のものは国に寄付していました。それらが戦争の部品に代わります。出さないと非国民扱いされましたので、お寺の鐘も出されました。またお風呂屋さんに行くとシラミやノミがうつることが多く、服もいいものを着ていくと取られることもたびたびでした。
終戦の天皇陛下の放送は聞いていましたが、7歳だったので何を言っておられるのか分からず、後から日本が負けたと教えてもらいました。
終戦後、舞鶴には引き揚げ船が着きました。「岸壁の母」の歌は舞鶴のことです。遺骨も戻ってきて、私が中学生になってから「葬送行進曲」に合わせ、生徒300名以上で一柱ずつ東舞鶴駅まで、白布に包み胸に抱いて歩いたり、マラリアの患者も引き上げてこられ、真夏でも毛布をかぶって寒い寒いと言っておられたことが印象的でした。 今から思えば、こちらには食べるものもない、でも米軍は立派な飛行機でやってくる。これで本当に勝てるのかなと思っていても口に出してはダメな時代。自由な言動が許されない時代でした。あの頃の不自由な生活があるから、多少のことがあっても我慢が出来るようになったと思いますが、二度とあのような戦争だけはやってはいけません。