• 生かされ、生きるチカラ。立正佼成会京都教会です。

戦後75年 私の戦争体験②

洛叡支部 荒木身予さん

 戦前、戦中、戦後を生かされて只今92歳、戦争体験を、とのこと。

 京都に空襲はなく、東山区の馬町、京都放送局の2ヶ所に爆弾が投下され、発表はなく噂として伝わりました。女学生になり、英語は敵国語としてジス・イズ・ア・ペンを習っただけ。運動場は耕し、肥料を運ぶモッコを担ぎ、奉仕芋畑に変身。町内会では連日、消火訓練とてバケツリレーで水を送り、火叩きで消す作業。道路拡張のため、次々と指定された民家は破壊。各家々の天井は落ちてくる爆弾が止まるとて、すべてぶち抜かれる。

 最初の頃、南京陥落とて提火行列等で鼓舞、大本営発表だけの情報に教科書を聞くことも勉強もなし、京大生だった兄は学徒出陣で伏見の36連隊へ、銃後を守る私たちは学徒動員で工場、兵器廠で兵器作り、朝星夜星での月月火水木金金の毎日でした。作業中、グラマンが急降下し私たちに向けて機銃掃射。「早く逃げろ」の命令に救われた恐ろしい思い出も…。「日本には神風が吹き絶対負けない」の言葉を信じ、忍耐の毎日でした。

 いよいよ戦局も厳しく、鳴り響くサイレンに防空壕に逃げたり、この京の空をB29の大編隊が西へ西へと通過するさまは不安で、それが大阪の大空襲でした。西の空が真っ赤に燃え続けるさまをただ呆然と立ちつくして涙と共に眺めていたあの日のことは忘れることなく今も甦ります。

 重大発表、ラジオの前に集まり、終戦の詔勅、陛下のお声は何を言われているのか聞き取れず、負けたのだと家族に教えられ、気力も体力も抜け落ちるだけだったと感覚として残りました。

 今、何かしら変な空気に不安を覚えます。絶対に2度と起こさないこと、失うことばかりの愚かなことが起きませんように心から念じます。

追伸

信じることも出来ぬ風船爆弾について知って頂きたくて

 私の工場が一時期、憲兵が監視する中で家人も工場内入室は許可されず、”秘密”の中でコンニャク糊をコバルト色に染め、和紙を何枚も張り合わせる作業。材料がどこから届き、どこへ運ぶのかも知らぬ間に、和紙で大きい気球を作り、爆弾を吊るしてアメリカ本土へ偏西風に乗せて攻撃したとのこと。それは届く筈がないと頑固に疑う私。奇しくもあれから70年を経て私が86歳の時、毎日新聞に記事を見つけ、今治支局に手紙を認めたことで記者が記事を送付下さりすべてを知りました。

 私の大切な消えない記憶を長い生命を頂けたお陰さまで知り得た衝撃は忘れることは出来ません。この体験をこの機会を伝えたく、大切な資料と2年後に発刊された同学年の高橋光子氏の本によってより深く心に刻むこととなりました。